2018年02月22日

東海楽器製造

ジャパンビンテージ二強の一つ


突然ですがジャパンビンテージってどこのメーカーを思い出しますか?

一番多いのはおそらく設立当初のフェンダージャパン株式会社だと思います。
シリアルの「JV」や「E」なんかが高値で取引されておりますね。
これはシリアルに希少性があるというよりも、フジゲン製のシリアルが総じて高いことからフジゲン製のフェンダージャパンに値が付いていると言えるでしょう。

上記ジャパンビンテージですが、一応はフェンダーの冠を名乗っていますのでストラトやテレキャスをメインに作っておりました。

じゃあレスポールタイプのジャパンビンテージはないの?
ってところで出てくるのが東海楽器です。

東海楽器研究所

当時は「東海楽器研究所」って名前で運営を開始しました。

レスポールタイプは厳密にいうとGRECOでも非常に精巧なものが作られてましたので、東海の専売特許ではないのですが、ただ東海のレスポールタイプの評判の高さには色々な理由があるのです。

神田のGRECOブランドのように分かりづらくなく
東海楽器研究所は「Tokai」ブランドを1977年に発足。

とエレキギターの話の前に東海楽器の技術について

1970年からアコースティックギターの製造を経て、1971年にあのMARTINの正規代理店として輸入販売業を行いました。合わせて国内流通のMARTINのOEM製造を請け負いました。

その流れもありMARTINのアコギ製造ノウハウを吸収し、アコギブランド「Cat's Eye」の生産ものちの1975年に開始しました。

これもジャパンビンテージのアコギとして玄人にはたまらない一品となっております。

元々1968年からエレキギターの製造はしておりましたが、この時代の「生産開始」って割とあてにならなくて、「生産成功」の方がハマるフレーズだと思います。

そして様々なノウハウを得た東海楽器は満を持して「Tokai」ブランドを設立するわけです。
東海楽器は自社工場を使った運営をしておりました。

時は1977年。
既にGRECOブランドが世の中に浸透している中での参入となりました。
エレキブームであったり東海楽器が元々持っていた販路もあったため滑り出しは順調。

最初はSTシリーズというストラトタイプのコピーモデルから生産を開始し
翌年1978年にはレスポールタイプになるLSシリーズの製造を始めました。

言うまでもなくコピーモデルです。

「コピーモデルを作らせたら日本一!」
「本家を超えるほどの品質!」

なんて言われていたこともあり、技術的には卓越したものを持っていました。
そりゃそうです。
アコギと言えどMARTINの技術提供を受けてましたし、なにより既に品質の高いGRECOが世に出回っている頃です。
最も重要である木工技術や管理方法などのノウハウを全て持った状態でのスタートで、どういったラインナップを揃えて、越えなければいけないクオリティの見本が既にある状態ですので強かったのです。

余談ですが、のちに発足されるFender Japanと比較してもボディのシェイプやヘッドのシェイプの曲線などがUSAに酷似しており、そこまで似せれたのはTokaiだけだったのです。
(たぶん知らない人が見たら全て同じに見えます。)

しかしながら、やはり出る杭は打たれる。
Fender社がこれでもかってくらい日本国内のコピーモデルを駆逐しようとします。

一応申し訳程度にトレモロユニットをマイナーチェンジしたりネックをオリジナルにしたりと行っていたため徐々に完全なコピーモデルではなくなっていきます。
これは当時の全メーカーに言えるところですね。

さてTokaiの両翼のうちおっきい方の翼「レスポールタイプ」

Tokaiブランド発足当時、ヘッドには「Les Poul」と記載されておりましたが半年後すぐに
これまた似たような字体で「Love Rock」と改名しました。

※皮肉なものでFenderのロゴを似たように記載していたTokaiがレスポールモデルを、
GibsonのロゴをマネしたGreco(神田)がFender Japanを製造していたところが逆転してて面白いです。


Tokaiと言えばLove Rock

このLove Rockのオールドが未だに根強く人気です。

そして当時の楽器工場は手に入れてないものですら作るわけで、カタログから見よう見まねで作っているものが沢山あります。
GRECOのレスポールタイプでは裏側が見れない為、塗装は想像だったり、ピックアップの溝の影をわざわざ溝の形をしたパーツを作り黒でぬっちゃったりがありました。

そんな中、東海楽器では
ガロというバンドのマークさんから本家58年製のGIBSONレスポールをお借りして、それを模倣して作っていたのです。
それ故、品質の高いコピーモデルを作ることを可能にしていたのです。

Love Rockの上位モデルではUSA製のピックアップも搭載してたしね。

これがあり、Tokaiのレスポールタイプはいまだに根強い人気があるのです。

ただ58年のGIBSONレスポールなんてものを模倣したらね、当然生産コストが合わない。
これも上位モデルの話ですが、メイプルトップ+マホガニーバック(単板)の作りです。
他メーカーはカタログから読み取れない、または本物を知らないことから合板が多かったです。

しかしながら市場の価格相場というものがあるので、だいたいGrecoなどと同じ価格相場で売らざるを得ませんでした。

ただモデルのいくつかはやはりGIBSON社からの販売差し止めを受け

しかも1982年にはフジゲン+神田+山野により「Fender japan」設立

さらに1983年オリジナルモデルのあの有名な「Talbo」を開発するも撃沈。

追い打ちをかけるように1984年
Fender社に訴訟を起こされた東海楽器は長年の決着により敗訴。
販売停止に追い込まれました。

その為、敢え無く経営不振により一度倒産してます。

以降1986年「東海楽器製造株式会社」と名を変え新しい会社を設立。

研究所時代のTokaiエレキギター製造は1977〜1985年のわずか8年です。
しかも1983年以降は迷走。
実質6年ほどの寿命でした。

個人的には1977〜1981年の間のLove Rockだけがジャパンビンテージと呼べる一品だと思います。
勿論ストラトも素晴らしいのですが、フジゲン製と甲乙つけがたいのでね。。

ちなみにGrecoの古いレスポールタイプも持っていますが、正直レスポールの形をした別物感はぬぐえません。

そんな古い時代のお話でした。


posted by mugeek at 18:00 | Comment(0) | ジャパンビンテージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

マツモク工業/松本木工

ジャパンビンテージ影の立役者


前回、フジゲンがジャパンビンテージを生んだという話をしましたが
フジゲンとともに当時のギター製造を盛り上げた工場に、マツモク工業という工場がありました。

「ありました」ということからわかるように、今はありません。

そんな日本のギター製造の歴史において重要にも関わらず
現代ではほとんど知られていないマツモク工業をご紹介。

マツモク工業

マツモク工業は長野県松本市の工場で、フジゲンとご近所さんでした。
元々はミシンを作る工場で、今ではあまり見かけないですが当時は木製だったミシンのキャビネットを作る工場でした。まだ1960年代初期の頃。

当時は今のように情報なんて簡単に手に入る時代ではなく見様見真似でやっていた時代です。
フジゲンですら最初の電気エンジニアは、牛小屋の蛍光灯を変えにきた街の電気屋さんを抜擢したように、ミシン工場がギター工場になるのには大きな理由はいりませんでした。

その頃からフジゲンとマツモクはご近所だったため付き合いがありました。
フジゲンがまだギター作りのノウハウもなく、ある日乾燥設備の不十分さで2,000本ダメにしました。
先日書いた「シーズニング」の重要さも知らなかった頃ですね。

そこでフジゲン、ご近所さんのマツモク工業に白羽の矢を立てました。

「あそこなら木材の乾燥技術を持っている・・」

そうこうしてフジゲンさんはマツモクさんに木材の乾燥を依頼します。

ギターとしての体裁すら作れなかったフジゲンは、ここでようやく楽器としてのギターを生むことが出来るようになりました。
つまりジャパニーズギターの創世記はこの2社が一蓮托生となり誕生したのです。
ちなみに当時のマツモク工業はまだ「松本木工」という会社でした。

この松本木工はフジゲンから乾燥を引き受けたわけですが、結果として松本木工は加工技術も優れていたため木材に関する全ての部分を請け負う形となりました。

現在のフジゲンの木工技術の基礎はマツモクにあったわけですね。

この2社は仲良しだったのもあって、海外からギターの技師を招いた際に2社ともレクチャーを受けることになったため2社一緒になって技術の工場を育んでいきました。

そしてマツモクの木工技術もまたフジゲンにレクチャーされていき、どんどん技術の発達をしたわけです。

1960年台の中盤についに神田商会とフジゲンにより「GRECO」ブランドが発足します。
初期のGRECOは話の流れからわかるとおり、マツモクの木材を使ってフジゲンが組立て電気回路をのせたものですね。

1966年にもなると、マツモクはフジゲン以外からも注文が殺到し徐々にフジゲンへの納品数を減らさざるを得ない状況になっていきました。
木工工程をマツモクに依存していたフジゲンは納品出来ない事態となったため、
1967年にフジゲンは自社工場を新たに建設し、そこで乾燥や木工も出来るようになったのである。

とはいえご近所さんですので、完全に取引がなくなることはなくてそれ以降も細々と取引が続いていました。

フジゲンはGRECOブランドを作り続けましたが、同様にマツモクも2次下請けとしてGRECOのギターを作っておりました。
ネックプレートに「MATSUMOKU」と書かれたジャパンビンテージは珍しくないでしょう。

さてこれまた先日申し上げましたが、当時のギター販売会社の3強である
星野楽器、神田商会、荒井貿易の3社のうちの一つが神田商会ですね。
星野楽器はアイバニーズを軸として海外に目を向けた戦略だったため、国内2強は神田と荒井です。

神田商会には「GRECO」があり、のちにFender代理店と手を組みさらに「Fender Japan」まで発足します。

そこで荒井貿易も新しいブランドを立ち上げました。
それが有名な「Aria ProU」です。

現在ではあまり褒められた品質でないものも正直ありますが、
発足した1970年台後半、その製造を請け負ったのがマツモク工業です。

Aria ProU


ブランド誕生は1975年。

当時のカタログを見ると、GRECOのカタログに似ておりコピーモデルばかりが掲載しています。
このコピーはマツモクにとっては既にお手の物の状況でした。

素晴らしい品質のエレキギターが沢山生まれました。

ただやはりコピーモデルですのでFender社、Gibson社の圧力はすさまじく
結果としてコピーモデルの勝者は神田楽器の「Fender Japan」となるわけですが
その為、国内でのコピーモデルを作れなくなってしましました。

1980年台にさしかかるとオリジナルシェイプの開発にAria ProUも画策するようになります。

ですのでAria ProUのコピーモデルは非常に短命でしたが、その間マツモクによって製造されたコピーモデルも言わずもがなジャパンビンテージとして優秀な一品と言えます。

カタログにより1983年まではマツモクの名前が確認できます。

マツモクはフジゲンの木工技術の生みの親。
そしてフジゲンとともに海外から技術を学んだ間柄。

十分な品質を持っていることがお分かり頂けただろうか。

そんなマツモク工業ですが残念なことにシンガー日鋼という会社の子会社であり、親会社の以降で工場を閉鎖せざるを得なくなってしまい、歴史に幕を閉じたのです。

posted by mugeek at 18:38 | Comment(1) | ジャパンビンテージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月02日

富士弦楽器製造

ジャパンビンテージの立役者


ジャパンビンテージという言葉を生んだと言っても過言ではない富士弦楽器製造。
今ではフジゲンって社名に変わってます。

FGNなんてロゴのギターを作ってますね。
さすがの品質のギターでめちゃくちゃ優秀です。

さてエレキブームのスタートは1964年くらいからと言われてますね。

以前の記事で中古と称した時期のギターはこの頃沢山発売されました。

エレキブームと発展途上の日本は相まってとにかく沢山の楽器工場が生まれました。
その数約80社

その中古と称したギターは粗悪品ばかりです。
だって本物を知らないコピー品だらけだもん。

なのでそれらの沢山の工場は勝手に潰れていきました。

そんな中切磋琢磨し、数少ない生き残りの工場
なんなら世界デビューすら果たした工場がフジゲンです。

富士弦楽器製造


ややこしい歴史は眠くなると思うので色々割愛して整理します。

まず覚えて貰いたいのが、フェンダー社のフェンダーブランドと違い、日本は社名とブランド名に違いが生まれがちです。

例えば
星野楽器のアイバニーズ
神田商会のグレコ
荒井貿易のアリアプロ2
など

1960年に創業したフジゲンは創業当時は自社で販売しておりました。
その頃、『星野』『神田』『荒井』の3社は楽器界の3強でした。

フジゲンはのちに上記の3社と業務提携を果たし

・国内の流通販売:神田,荒井
・海外の販売:星野

に委託しておりました。

その為、Greco,Ibanezのブランドをフジゲンが請け負っていました。
(荒井貿易の受注はアコギでした。)
つまるところ自社ブランドの反映よりも、ギターを作ることに注力したわけです。
面白いのが当時のグレコとアイバニーズのカタログを見ると同じモデルがあったりするんですよね。

1978年からのフジゲン製のグレコなんかは脂が乗り切ってて至高の一品です。

そんな1970年代後半〜1980年代前半。
まだフェンダージャパンなんてなかった頃ですね。

1977年ついにギブソンがキレます。

「パクってんじゃねえぞコラァ」

って

今大江戸温泉物語の件で揉めてますがまさにそんな感じ。

ただ大きな違いは、フジゲン製の性能が良すぎて本家の品質を上回り
ついにはシェアが拡大してきてしまったためギブソンさん焦ります。

この時フジゲンは日本国内でのギブソン関連商標などを全て持っていた為、ギブソンさん敗訴。

ギブソンさん商標がないと日本で売れません。
ということで

フジゲン「コピーモデル作らせてちょ」

ギブソンさん「わいらも日本で売りたいんや」

という相互の望みでフジゲンは商標をギブソンへ返却、ギブソンはそれなら損害賠償請求せんわってことで和解し丸く収めました。めでたしめでたし。

そういった経緯もあり、よく楽器通販とか見てほしいんだけどレスポールタイプとかレスポールモデルとか書いてるでしょ?

あれはレスポールってギブソンの商標だから、今は名乗れないんでそういった表現になってます。

そしてその頃、フェンダー社も日本のコピーモデルを駆逐しようと躍起になってます。
もう巨人レベルで駆逐しようとしてきます。

しかしフェンダーさんある時こう言います。

「ライセンスをレンタルさせてやるからフェンダージャパンでもやれや。売れたらマージンよこせよ」

その結果、山野楽器、神田楽器、フジゲンでフェンダージャパンを作ります。

これが1982年。

初期フェンダージャパンの性能にプレミアがついてるのはフジゲン製造のせいですね。

そしてその一年後1983年、ついにフジゲンは世界一の出荷本数になります。

日本の工場がだよ?
すごい話でしょ?

しまいにゃフェンダー本家のギターを1984〜1987年の期間製造していたこともあります。
(本家火災のため)
そしてそののち、フェンダー本家のコロナ工場はフジゲンの技術協力の元建設されました。

また1987年、新たな工場建設の為メキシコが建設。
その際フジゲンとフェンダーの共同出資で作られたものがフェンダーメキシコである。

翌1988年にギブソンとの共同ブランドのオービルというブランドを設立。


日本のみならず海外の生産にも沢山関わってきた歴史と技術力のあるフジゲン。
歴史の上でどれだけ重要な工場だったのか、何より今でも高品質なものを作っています。

ビンテージギターと呼ばれるギターってだいたい1960年台や1970年台のオールドのフェンダーやギブソンのことですよね。
狭義ではジャパンビンテージと呼ばれてもてはやされているギターは、オールドのフジゲンということになります。

フジゲンの製品の質は歴史上わかると思います。
そんなフジゲンのオールドがみんな欲しいのです。
その為、プレミアなんかがついて取引されています。

OEM生産という性質上、様々なメーカーのジャパンビンテージがありますが
メーカーが違えどフジゲンの工場から生まれたものだったりします。

そういう意味では、あまりメーカーだからどうとかは拘らずに製造工場で見る目ってのは非常に大事です。
アーティストが好きなのかレコード会社が好きなのか。
エイベックスだからって理由だけでエイベックスのアーティスト全部好きになるものではないですよね?

さて次回、フジゲンと双璧をなした兄弟といってもいいマツモク工場について。

でわでわ。
posted by mugeek at 21:00 | Comment(0) | ジャパンビンテージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
スポンサードリンク